last updated 1997/06/23
第39話(全130話)
回路不良〈ショート・サーキット〉(5/5)
「あなた、本当にあたしが誰だか忘れちゃったのね?」
「え? あ。ごめんなさい。じつはそうみたいなんです」
「ヤレヤレ」
マリカはもう一度タメ息をつく。そして肩をすくめて呟く。
「いいわ。これが試練なら喜んで引き受けましょう。あたしはこんなことでめげたりなんか絶
対にしないわ」
「あの、お姫さま」
「姫ではないと言ったでしょう」
「あ。じゃあ、えっと、マリカ、さん」
「マリカ! あたしはマリカよ。さん付けなんてしないで。泣きたくなってきちゃう」
「旅に出るんですか?」
「そうよ」
「どこへ?」
「決めてないわ。心の赴く場所を目指すの。これは目的のない旅なのよ。あたしはあたしを高
めるために必要だと信じるから、城と国を後にしたのよ」
こう言えば、マスターはきっとこう言い返すはずだった。
・・自分を高めるのなら、蔵書室と剣術の練習で充分ではありませんか。いままでそれで充
分だったのに、何故突然に旅になど出なくてはならないのでしょう。理解不能。
マスターは何かと言えば「理解不能」と繰り返す。まるで自分に理解できないことは、すべ
て間違っていることなのだと言わんばかりの傲慢さだ。マリカはマスターが「理解不能」と口
にするたびに、お前は愚かで浅はかでものの道理をまるで知らんのだ、と言われているように
感じていた。そして「理解不能って言われると、あたしすごく傷つくのよ」と言い返すと、ま
た「理解不能」と言葉が返ってくる。
しかしいま、ピートでもあるマスターは「理解不能」とは言わなかった。そうではなく、彼
はこう言った。
「ぼくも一緒に連れてってもらえませんか?」
理解不能。
マリカは口の中で呟く。いったいマスターってばどうしちゃったんだろう。
「連れてくも何も、あなたはわたしの側から離れないじゃないの。向こうへ行ってって怒鳴っ
たって、決して向こうへ行ってなんかくれなかったわ。あなたはあたしの監視役なんだし、そ
の命令に忠実であろうとし続けてた。連れて行きませんって言ったって、あなたは強引につい
てくるんでしょ?」
「ほかに、ぼくには何をしたらいいのかわからないんです。連れてってもらえると、とても助
かります」
「連れてくわ。もちろんそのつもりよ。だからわざわざここまであなたを捜しにきたんじゃな
いの」マリカはタメ息混じりに言う。
いかにもうっとおしそうな口調だけど、その実、彼女のほうからマスターにはぜひとも旅に
同行してもらいたかったのだった。城を捨て、国を捨て、身分を捨てて、それは気持ち良いく
らい潔かったけれど、何もかも手放してしまうのはやはり不安だった。出来ることなら自分の
欠点も弱点も癖も知り尽くしているマスターに側にいてもらって、困った時にはアドバイスを
求めたかった。
もっとも、こんな状態のマスターに、正しいアドバイスが期待できるのかどうかはわからな
い。けれど、ひとり旅の孤独に比べればずっとましなはずだ、とマリカは思う。
「旅だなんてとんでもない。すぐに城へお戻り下さい・・って、マスターはきっとそう言うん
だろうなって思ってたのに、これは意外な展開ね。まさかマスターがあたしの旅をこんなに簡
単に許してくれるとは思わなかったわ。ありがとう。マスターと一緒ならあたしとても心強い
わ」
マリカは言って、ポンとマスターの頭を平手で叩くと、はじめてやさしく微笑んだ。理解不
能と繰り返してばかりいるマスターよりも、何だかひどくオドオドと恐縮しているいまのマス
ターのほうが、何だかとても親しく感じられた。無表情な厳しい監視係から、昨日雇われたば
かりの小間使いに変貌してしまった感じだ。
「じゃあ、出発。目的のない旅へ!」
・・それは放浪と呼ぶのです。
言ったナッツの言葉がマリカの脳裏をかすめる。
「放浪のはじまりよ、マスター」
「はい」
ピートは元気にうなずく。
これでぼくは、ぼくの身に起こったことの原因を捜すことができる。帰る道を捜すことがで
きる。それもたったひとりでこの見知らぬ大地を彷徨うのではなく、お姫さまと一緒に、だ。
それって何だか御伽話みたいじゃないか。
ピートは微笑みながら、ワーターに飛び乗るマリカに従った。
御伽話みたいな旅のはじまりに、ピートは胸を踊らせ、気持ちを高揚させる。
彼は御伽話を歓迎していた。それは彼の馴れ親しんだ世界だったし、第一、御伽話なら、そ
れは必ずハッピーエンドで終わると約束されているからだ。
「ひとつ訊いていいでしょうか」
ピートが言う。
「なあに?」
「あの、ここはいったい何ていう名前の世界なんですか?」
問われてマリカは、馬上から、横を並走しているマスターを眺め降ろす。
そして、うんざりする、というよりもむしろ、楽しみはじめている、という感じの笑顔で応
えた。
「ここはテオよ。そしてマスター、あなたは完全に回路不良〈ショート・サーキット〉だわ!
」
(つづく)
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